あらすじ
とある高校の演劇部が文化祭で演じたオリジナル脚本『姫と人魚姫』。
男の体に生まれながら心は女である真砂は、人魚姫役に立候補する。
世間に自分は「女」なのだと認めさせるために。
けれど、大学生になりかつての演劇部の仲間たちの前に現れた真砂は「男」の姿をしていた。
最初は登場人物の誰が女で、誰が男なのかわからず、私は混乱しました。
戯曲のように始まる冒頭、登場人物たちは苗字だけが明かされ、性別は隠された状態で進んでいきます。
一人称は「僕」や「俺」、「私」と出てきますが必ずしも登場人物の体の性別と一致しない。
頭の中で登場人物たちの姿をイメージできずに、「読みにくい」と感じる人もいるでしょう。
私もその一人でした。
けれど、「男」だとか「女」だとかラベルを貼っていくことにどれほどの意味があるのでしょうか。
本当に大事なのは、外側のラベルではなく、中身の性別ではないのか。
こんな風に書くと、トランスジェンダーに理解がある人間に思われるかもしれませんが、
本書を読み終わったとき「私はトランスジェンダーについて何一つ、理解できていなかった」という現実を叩きつけられました。
体と心の性別が違うことによって生まれる悩み、生きづらさについてニュースで取り上げられているのは当事者が感じている
苦痛の一割でしかない。もしかしたら、一割にも満たないかもしれない。
そう思うと、私は自分が持っている無意識な「偏見」や「色眼鏡」に、心臓がぎゅっとなるのです。
外側の性別だけを見て、誰かを傷つけていやしないか。
トランスジェンダーの人たちを無意識に迫害しているのではないか。
そうはなりたくないので、私も真砂の友人たちのように本質を見抜き、性別だけですべてを判断しない人でありたいです。
次に読む本
『レッド あかくてあおいクレヨンのはなし』(マイケル・ホール/著)
「レッド(あか)」とラベルがついているのに、「あか」がぬれない、「あおい」クレヨンの物語。
周囲はレッドのために「あか」を上手にぬれるよう様々なアドバイスをするが、レッドは「あお」しかぬれない。
あるひ、あたらしいともだち「パープル」がやってきて、「ぼくのふねに うみを かいてくれる?」と頼みます。
こちらは、トランスジェンダーの大事な基礎がこどもからおとなまで、絵本で学べる超入門書。
ラベルの色と本当の色がちぐはぐになっている「レッド」というクレヨンが主人公です。
ラベルには「あか」と書いてあるけれど、本当のレッドは「あおいクレヨン」なので、
「あかい」絵を描こうとしても、「あおい」絵になってしまいます。
周囲は
「れんしゅうすれば、できるようになる」
「ほかのいろのともだちといっしょならうまくいく」
「なまけているんじゃないか?」
「どりょくしなくちゃね」
と口々に言います。
しかし、どれだけ、レッドがどりょくしても「あか」にはなれません。
「だって、レッドは「あお」なのだから当たり前じゃない」と読者は思うかもしれません。
でも、これが人間だったら? 外側の性別しか見ずに、接するのではないでしょうか。
もしも身近な人に「レッド」のような生き方を強いられている人がいたら、
私は外側のラベルだけを信じるのではなく、本当の色を見ることができた「パープル」のような存在でありたいです。
おススメポイント
川野芽生さんの『Blue』を読み、「性別」に対する自分の無意識の偏見や色眼鏡を取り外したいと思い、
こどもにもわかりやすいように絵本で「外側と内側の色(性別)」について表現された『レッド あかくてあおいクレヨンのはなし』を「次に読む本」に選びました。
コメントを残す