あらすじ
イギリスの公営住宅に住む少女ミアは、アルコール・薬物中毒の母と小学生の弟の三人暮らし。ある日、図書館で金子文子の自伝に出会う。文子は明治~大正期を生きた思想家。
こどもは親を選べない。生きた時代も国も違う二人だが、ミアは自分と似た境遇で育った文子に、親近感を超えた、もうひとりの自分を重ねるようになる。
現代を生きるミアの身辺と、およそ100年前を生きた文子の身辺を交互に描きながら、ミアと文子が徐々にシンクロしていく。
ヤングケアラーとしてのミアの支えは弟のチャーリー。彼だけがミアを現実の世界に留めてくれている存在。また、クラスメイトのウィルとの交流で徐々に己の内側の感情を表出していく。
幼いころより、母同然のように接してくれたゾーイ、ゾーイの娘のイーヴィ、クラスメイトのウィル、レイラ、ソーシャルワーカーのレイチェルなど周囲との関係の中で、懸命に生きる姉弟。だが、母の更生はすすまない。そして、ミアはある行動にでる。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」の著者が描く、“階級社会“イギリスで生きる少女の物語。
涙が出た。抗えない境遇、目を背けたくなる事実よりも、エピローグでの“オフィシャルでない友達”のイーヴイが発した言葉とクラスメイトのウィルのメッセージに。
私たちはイギリスという国の表面しか知らない。華やかな文化、スポーツ、観光地、雑貨。ロイヤルの話題にうっとりする。そこに潜在する、生活、負の世代間連鎖を“リアル”に知ることになる。学校生活はまさに社会の縮図、彼らはすでに階級闘争の中を生きている。
「両手に」トカレフの意味とは。武装し守らなければならないものとは何か。
文子の生きた大正期の日本、そしてミアの生きる現代イギリス。女たちは常に“時代”に振り回されている。いくつもの切り口で現代イギリスに内包する諸問題を顕にする。
フィクションであるが、これは紛れもないノンフィクション。心がざわつく。
次に読む本
スクラップ・アンド・ビルド (羽田圭介)
就職活動中の青年、健斗は母、祖父との三人暮らし。
資格試験勉強中ではあるが、アレルギーのため生活に支障をきたし、思うようにいかない日々をやりすごしている。祖父が頻繁につぶやく、「じいちゃんなんか、早う死んだらよか。」という言葉を叶えてあげるべく、健斗はある決意をする。しかし、そのためにどのように生産的な時間を費やしたらよいのか悩んだ健斗は、いてもたってもいられず「筋トレ」を開始。
筋トレによって日に日に再構築されていく健斗の体、そして思考。老いた祖父とは“対照的“になることで、己の“生”を実感する。
在宅であることが多い健斗は、祖父の通院やデイサービスの送迎、また日中の祖父の家での様子から、祖父に対する“決意”の中で葛藤し始めて…
第153回 芥川賞受賞作。
飾らない、何にも忖度しない言葉で描かれているからこそ、鮮明に場面が浮かび上がる。長寿国日本に内在する問題。“家族”がテーマではないのだが、それでも“家族”に執着してしまう。家族だからこそ、“本当の姿”を見せられないこともある。
「スクラップ・アンド・ビルド」、この言葉の真意を知ったとき、健斗を取り巻く現実がこれまでとは違ったものになっていくであろうことに気づく。主人公の葛藤が、ニヒルなようで、どこか情もありユーモア。言葉選びが面白く、新鮮。社会に向けたメッセージともとれる最後の場面、誰もが思い描く安直な結末にはさせない著者の意地のようなものも感じる。
「じいちゃんが死んだらどげんするとね。」
全てを見透かしたかのような祖父の言葉、これはまさに、「スクラップ・アンド・ビルド」。この言葉に、この小説の真意が詰まっている。
ともに、「スクラッブ・アンド・ビルド」と「家族」に注目した。
『両手にトカレフ』は物理的な、ミアの置かれた環境のスクラップ。両手にトカレフを持ったように、“武装“しなければ守れなかったもの、唯一の支えの弟。そして、周囲によってなされようとしているビルド(再構築)。
『スクラッブ・アンド・ビルド』は健斗の内側のスクラップ・アンド・ビルド。無職になったことで初めて、祖父に向き合う。状況は変わらないが、ビルドした自分が結果として、祖父とのかかわり方、向き合い方、現実をもかえていく。
「家族」という単位で、環境に抗えないミアや文子。祖父を含めた「家族」にいる健斗。
家族にしかできないこと、家族では出来ないこと。家族にしか言えないこと、家族には言えること。外部の人間が必要な時とはいつか。人間関係の最小単位の「家族」の意味を、二つの切り口で考えさせられる。
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