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『やがて海へと届く』彩瀬まる の次に読む本は

あらすじ

奇数章と偶数章が交互に「私」の一人称で進んでいく。奇数章の「私」、真奈は大切な友人のすみれを東日本大震災で失った。3年が経ってもその喪失感から抜け出せず、すみれの母や元恋人が彼女の不在に慣れていくことが許せない。偶数章の「私」は自分の名前も忘れてしまったが、何かを目指して歩き続ける。歩き続けた果てにはなにがあるのか。

長松

真奈が遠野と口論する場面がとても印象に残った。真奈は「生まれる時は一人でも特別な誰かと二人になる。ならなければいけない」と切迫している。対して遠野は「死も無念も一人でなんとかしなきゃならない」という。真奈自身がいうように、どうしたって頭の中は一人だからで、思考も苦痛も、切り取って誰かと分け合うことはできないからだ。真奈の家族や生い立ちについての描写はなく、彼女がそこまで一人を恐れる理由が気になった。

次に読む本

『銀河鉄道の夜』宮沢賢治

ケンタウル祭の夜、不思議な声に導かれジョバンニは鉄道に乗っていた。それは天の野原を飛ぶ銀河鉄道。そして、ジョバンニの前には友人のカムパネルラがいた。星座の名の停車場、乗り込んでは降りていく人々、幻想的な旅でジョバンニは「ほんとうの幸い」について考える。

長松

ジョバンニは気がつくと銀河鉄道に乗っていた。それまでは丘にいたのに、急に空を飛ぶ鉄道に乗っている。通常なら仰天する出来事に疑問は挟まれない。夢を見ている時は空を飛ぶなど、非日常的なことが起きても疑問に思わないがその感覚に近いのか。切符の色、幻想第四次など、様々な考察の余地がある。それに加え、賢治の死によって未定稿であることが、かえって本作を深遠なものにしていると感じた。

長松

舞台に「生と死のあわい」のような場が使われている点が2作に共通している。そしてそのあわいの場を、かたや鉄道、かたや徒歩でどこかへ向かって移動している。主人公が孤独を感じ、魂の片割れともいうべき他者を求めていることも共通している。しかし『やがて海へと届く』はすみれの喪失から始まる物語だったが、『銀河鉄道の夜』はカムパネルラの喪失で終わる物語だ。その後のジョバンニの姿を『やがて海へと届く』の真奈に重ねて想像してみるのも読書の愉しみだろう。

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長松

長松

心に触れる作品に出会うとごちゃごちゃ考えずにはいられない性分です。

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