5月23日に読む本は1リットルの涙(木藤亜也)

難病の脊髄小脳変性症にかかった木藤亜也さん。体を動かすのが次第に不自由になっていく病気で、現在、まだ有効な治療法が存在しない。

1988年5月23日は

木藤亜也さんが他界した日

木藤亜也さんが、14歳から綴った日記「1リットルの涙」を紹介します。

ドラマや映画にもなっている有名なお話ですね。

体の違和感

ふらついたり、転んだりすることが増えた。また転んだ時に、とっさに手が出ず、あごの下側を地面にうって怪我した。

亜也さんの母が、あごの下側をうったことから娘の異変を察知し、病院できちんと検査を受けさせた、というのが印象的でした。

亜也さんの母が保健師で、医療知識があったことも大きいでしょうけど、娘の行動をしっかり観察して、判断したのが凄かったです。

高校生活

亜也さんは、難病にかかってはいたが、高校生活を頑張っていた。親友もできた。

しかし、当時の高校は、バリアフリーからはほど遠い状況で、亜也さんは教室の移動も大変だった。それでも最初のうちは、友達が手を貸してくれて、なんとか過ごしていた。

しかし、1年生を終えるころ、学校で亜也さんを預かるのは難しい、と養護学校への転校をすすめられる。

体が不自由でも、一生懸命学校に通っていた亜也さん。しかし、(当時の環境では障碍者への十分な対応は困難だったのでしょうけど)学校からは辛い知らせが届きました。

このときに流した涙がタイトルになっていますね。病気そのものよりも、友人と引き離されたこと、それも自分が十分に納得できていない状況で引き離されたことは、とても辛かったのでしょう。

障碍者への理解の低さ

身体障害と言語障害があると、バカに見えるのかしら。

亜也さんの言葉です。

当時(1980年代)は、現在と比べると障碍者への理解はすごく低かったのではと思います。

母親の言葉

亜也は、本当にびっくりするくらい何ごとにも一生懸命とり組んできたんだ。五体満足でのほほんと生きているお母さんより、よほど立派な生き方をしてきたんだ。だから亜也に教えられることがたくさんあるからと言って、未だに訪ねてきてくれる友人もいるんだ。素晴らしいことだ

治る見込みの無い難病に体を蝕まれても、必死に生きてきた亜也さん。その亜也さんに、母親がかけた言葉です。

自分が病気になったら、亜也さんほど一生懸命に生きることはできなかっただろう。きっと心が折れてしまっていただろう。

1リットルの涙は本人の日記でした。では家族はどうだったのか。ここについては、亜也さんの母親が書いた、いのちのハードルもおススメです。

病気に侵された少女がかいた日記です。病気のことがクローズアップされますが、妹や弟、友人たちとの交流など、日常もかかれています。

現在ほどには障碍者への理解が進んでいない時代に、一生懸命に生きた、亜也さんの日記。読めばきっと感銘を受けるでしょう。




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