『Blue』(川野芽生)の次に読む本は

あらすじ

トランスジェンダーの真砂が高校の同級生たちと新解釈の人魚姫を上演する。真砂は人間になりたかったのに結局はなりきれず、憐みを抱えて愛する人に接する人魚姫と自分を重ねていた。同世代の理解ある友達の中では生きやすくとも、いざ社会に出ると実際には困難が多いトランスジェンダーとして、どう振る舞いどう生き抜くべきなのか。親であっても本当の自分の心を理解できないのだという孤独感をも抱えながら、真砂は割り切れない悩みや現実への諦めと共に、自分の正直な感情と向き合っていく。

くすまり

社会と真っ向から闘い、自分の意見を潰されないようにと必死に叫ぶようなジェンダーを扱う文章は多く見かけるが川野さんは真逆で、ニュートラルな、いかにも現代っ子たちな空気感の中で物語を進めている。

そして私自身が実は小説を読む際に、それぞれの登場人物が男性なのか女性なのか、特徴をいち早く掴んで判別したいと思っていたことに気付かされる。

社会で自分の居場所を見つけるために、どれだけの人が自分の心を諦め、社会に合わせているふりをせざるを得ないのだろう。男性女性二者択一の社会で、どちらの仮面をかぶった方が楽に生きられるのかという選択を考えた主人公の真砂は、別の仮面を選んだら愛する人を失わずに済んだのだろうか。
そして「憐み」はマイノリティに対する上から目線の制圧的感情なのだろうか。

次に読む本

『ジェンダーと脳 性別を超える脳の多様性』(ダフナ・ジョエル&ルバ・ヴィハンスキ)

これまで多くの研究者が結論づけてきた「男性脳」と「女性脳」という性別差による脳の違いは実は明確には存在せず、どの人の中にもそれぞれに男性的な部分と女性的な部分が混在する「モザイク脳」であるいう著者の説を、例を挙げながら検証していく。果たして男性らしさや女性らしさは、どこから生まれるのか。人間を取り巻く社会環境や教育、小さな日常に潜む思い込みなどを指摘しながら、これからの未来にどのような教育があれば古い社会通念を打破できるのかを考える。

くすまり

なぜ男性脳や女性脳という研究が盛んに行われ、それらの一般書が飛ぶように売れていくのか、著者の分析する視点から考えてみると目から鱗である。さらに人間が男性的である、または女性的であるという概念は、どこから登場したのか考えていけば結局は本質的なものというよりも、その時代の人間が勝手に決めたルールでしかないということが、検証を進めるごとに明らかになっていくのが面白い。

かくいう私も、女性らしさはこう、男性らしさはこうという洗脳教育をしっかり受けて育った世代であり、自分の中に無意識に刷り込まれている性別概念を、今一度見直す必要があることを著者の研究と提案から思い知らされた。自分自身がトランスジェンダーではなかったとしても、この問題はもう他人事ではない。自分自身のジェンダー概念もしっかりと見直し、どこからどこまでが古い常識に囚われたままだったのかを個々が認識する必要がある。

自分はそんな思い込みはないぞ、と思っている人ほど読んでほしい一冊。どこかに「あ、自分もそういう思い込みあったかも」と気づく箇所があるかもしれない。

おススメポイント

くすまり

トランスジェンダーの主人公が登場する小説をきっかけに、人間は自分の心の性別をどのように判断するのかの研究本を読み進めました。『Blue』の真砂には女性として生活した時期と男性として生活した時期があり、本人の心の中も揺れ動いている様子が描かれているのですが、本来人間の心と脳というのは100%男性だったり女性だったりすることは不可能だという話が、ダフナ&ルバの研究では提示されています。男性であるか女性であるか二者択一を迫られる社会はまだまだ多く、そんな今現在の社会で生き抜かねばならないトランスジェンダーの不安定な心理バランスを描いたのが小説『Blue』であり、そんな生きづらさを解決する糸口をデータ研究というジャンルから見つけて提示しようとしているのがダフナ&ルバのような研究者であり、さらには旧態依然とした「優れた男性脳」「劣った女性脳」を証明しようとしている研究者も実はいまだにいるからこそ社会が変わらないという現実があることもまた、ダフナ&ルバの本から見えてきます。もしもあたながトランスジェンダー当事者ではなかったとしても、これらの問題を知り、小説と研究所の違った視点で自分なりの考えを巡らせることは社会を変化させるきっかけの一つになるのではないでしょうか。




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