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世界はなぜ地獄になるか(橘玲)の次に読む本は

あらすじ

現代社会はリベラル化された社会です。
人種や性別など属性に囚われず、自分らしく生きられる社会は素晴らしいものでしょう。
しかし、かえってリベラル化が不自由な社会、もっと踏み込めば地獄を作り出しているとしたら……
「キャンセルカルチャー」とは公職など社会的に重要な役職に就く者に対して、その言動が倫理・道徳に反していることを理由に辞職を求めることです。
これは小山田圭吾氏を巡る一連の混乱で、日本人にもこの風潮が浸透しました。
人々は「不道徳な者を探し出し、正義を振りかざして叩くことで、自分の道徳的地位を引き上げる」という欲望の虜になっています。
いったい誰がこの欲望から逃れられるのでしょう。

百川楽海

キャンセルカルチャーの「魅力」に惹かれないように気をつけたいと思いました。
正義を掲げて他者を糾弾するのは本能的に気持ちがいい行為です。
一昔前は著名人でもない限り、持論を広く世間に広めるのは困難なことでした。
訴えたいことはデモを起こすなどして表明するのです。
しかし、それには時間と労力を要するのでよほどの情熱を持たなければ実行できません。
ですが、今ではSNSがあります。
快適な部屋でポチポチと文字を打つだけで意見を発信することが出来ます。
世間に対して問題提起をするハードルは低くなりましたが、それと同時にその行動が安易なものとなってしまったような気はします。
その結果、正義を振りかざしやすくなりました。
事情を詳しく知らないのに、「みんなが叩いているから、あの人は悪いことをしたんだ。」と野次馬も生まれますし、誹謗中傷にすら発展してしまうこともあります。
本来であれば他者を非難するということは、リスクがあるものでした。
自分が攻撃することによって、当然ながら相手から報復される場合もあります。
しかし、ネットの世界では対面することがないので、その心配がありません。
遠くからいくら石を投げても反撃される心配はないので苛烈な言葉を使って他者を攻撃できてしまいます。
「レスバ」になったり、起訴されて裁判になる可能性もあるので、厳密には反撃される心配がないわけではありません。
しかし、少なくとも怒鳴られたり、殴られたりすることはないので安易な気持ちでしてしまう者もいるでしょう。
SNSによって人間は影響力と暴力性を解放してしまったのかもしれません。

次に読む本

無理ゲー社会(橘玲)

自分らしく生きられる社会は「無理ゲー」です。
生まれた身分に応じた人生を送ることしかできなかった時代と比較すれば現代社会は天国に思えます。
しかし、視点を変えてみれば家柄に囚われず自己実現を出来る社会は地獄的なのです。
メリトクラシーを取り入れた社会では結果は全て自己責任となります。
家柄や人種といった本人の努力では変えられない先天的な要素での差別を撤廃した上で、後天的な努力で磨ける能力を重視したフェアな競争をしているからです。
家柄による身分制度ではたとえ貧しくても「運が悪かった」で済まされますが、現代社会では貧しいことは「怠惰・能力不足」を意味します。
前者では自責の念に駆られることはありませんが、後者ではそうはいかないのです。
そして「平等な競争」を建前とする能力主義社会は決して平等ではありません。
遺伝や環境による先天的な格差があるのです。
知能が高い親からは知能の高い子どもが生まれる傾向があります。
また能力を磨くには良い環境を用意すれば効率的です。
当然ながら裕福な家庭の方が有利となります。
結局はメリトクラシーを取り入れた社会も先天的な要素に恵まれた人間に有利なのです。
それどころか逃避場を撤廃し、他責が許されない全てが自己責任としなってしまう制度でもあります。
このような理由から自分らしく生きられる社会は地獄なのです。
「自己実現」が出来る社会であることにより、夢が氾濫しているのも地獄と化している一因です。
夢を持つことが強制される社会は人を不快にさせます。
小学生からずっと夢を尋ねられる世界に身を置くことは過酷なことです。
夢がなくても無理に取り繕う必要があります。
そして、そのことについて上手に答えなければいけません。
それも高度経済成長期のように、好景気で希望に満ち溢れた社会ではなく、長期的な不景気に陥っている今の日本においてです。
個人の資質に関しても同じことです。
全ての人間が世界中の人々から称賛されるスーパースターになれるわけではありません。
このように経済の構造、個人の資質という観点から「夢を持つこと」の暴力性を指摘する著者は、その先の社会構造によってもたらされる地獄も暴いていきます。

百川楽海

自分らしく生きられる世界は「無理ゲー」であるとする著者の主張にはハッとさせられるものがありました。
私は身分制度を先天的な要素で自己実現の機会を奪う残酷な制度だと考えていましたが、著者の意見に触れるにつれ、能力によって社会的地位が決定されるメリトクラシーのほうが残酷なのではないかと考えを改め始めました。
前述した通り、身分制の中で生きていれば、たとえ貧しくても身分という先天的な要素に恵まれなかっただけなのです。
つまり「運がなかった」のであり、決して本人の能力が劣っているわけではありません。
しかし、メリトクラシーを取り入れる現代社会ではそうはいきません。
現実は遺伝や家庭環境によって同等の努力をしても結果は異なるので決して平等ではなかったとしても、建前としては家柄によって人生が決定されない平等な社会です、
平等な競争を経た上で、貧しい生活を営んでいれば、運が悪かったでは済まされず、「怠惰・自己責任」だとされてしまいます。
同じ身分制でも「逃避場がある制度」と「結果が全て自己責任となる制度」ではどちらがより残酷なのでしょうか。
豊かな社会に身を置きながら抱いていた陰鬱な感情。
それが解消されたように思えました。
努力を重ねて能力を磨き続けてもこの「無理ゲー社会」を生きられるという確証はありません。
このような事実を直視すると辟易します。
しかし、絶望はしないようにしたいです。
そもそも完全に平等な社会など実現できるはずはありません。
これは仕方ないと諦めます。
この現実に抵抗しようとも抗うのは至難であると自覚した上で、受け入れたいのです。
そして希望の光を見いだして、そこに目を向けるのです。
格差も理不尽もある。しかし、生まれた瞬間から全ての結果が決まっているわけではありません。
人間の能力は50%遺伝するようです。
この結果を「50%も遺伝するのか。努力をしても無駄なのかも。努力をした恵まれた人間には敵わないのだろう……」と捉えるよりも、「50%も遺伝するのか。でも残りの50%はこれからの行動次第だ。頑張ろう!」と捉える方が状況は好転するでしょう。
もちろん、家庭環境は生まれる前からある程度決まっているので、厳密には能力の50%が自力で変えることが出来るというのは誤りかもしれません。
しかし、ここで私が主張したいのは能力の正確なパーセンテージではなく、そのデータによって導き出される「根拠のある希望」です。
理不尽な世界ですが、ある程度は自らの手で状況を変えることが出来るのです。
この事実を忘れることなく「無理ゲー」をプレイしていきたいと思いました。

おススメポイント

百川楽海

橘玲さんの鋭い視点が好きで、皆さんにも著者の魅力を少しでも伝えたいと思い選定しました。
ただでさえ経済が低迷し、回復する見込みのない暗い世の中に身を置き続け、さらに陰鬱な気持ちになる本を読むことはないというご意見もあるでしょう。
しかし、私はこの世界の見たくない部分から目を逸らしてはいけないように思います。
現実を直視した上で、自分はどのような行動を取るべきか考えるのが生産的なのではないかと考えています。
是非とも皆さまに手に取っていただきたい作品です。

この記事を書いた人

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百川楽海

読書が趣味の大学生です。
小説・歴史書・哲学書と幅広い分野の本を読んでいます。
よろしくお願いいたします。

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