あらすじ
いまや日本一有名な「師匠」といっても過言ではない方といえばそう、将棋棋士の杉本昌隆八段です。
さかのぼること十数年前、杉本さんは幹事を務めていた東海研修会(将棋を学ぶ少年少女を育成する組織)で、とてつもない才能を秘めたひとりの少年と出会います。
「この子は将来、間違いなく超一流の棋士になる……!」
そう確信した杉本さんが始めたのは、なんと少年を弟子にスカウトする練習。
「プロを目指すならうちの一門にこない? おやつも食べ放題だよ」
……鏡の前での練習の甲斐もむなしく? 程なくして彼のほうから杉本さんの元に弟子入りの挨拶にやってきたのでした……。
少年の名は藤井聡太。
のちに将棋界の記録を次々と塗り替えていく天才棋士の「師匠」としての日々が、この時から始まったのです。
「週刊文春」にて2021年4月から2023年4月にかけて掲載されたエッセーを書籍化。
破竹の勢いでタイトルを奪取していく藤井聡太さんとのやりとりをはじめ、杉本さんの棋士としての日常がユーモラスな自虐たっぷりに綴られています。
「うーん、この将棋は相手の玉が詰んでいそうだけど考えている時間がないな。藤井君、代わりに詰ませておいて」
「分かりました」
詰将棋解答選手権5連覇の猛者に指導対局でこんな指令を出せる師匠は、きっと二人といないでしょう。
本書は藤井さんが初の名人戦に挑む直前までの連載回でいったん幕を下ろしますが、その後、藤井さんがこの戦いを見事制し、史上二人目のタイトル七冠を達成したことはご承知のとおり。
杉本師匠のつらい……いや楽しい日々はまだまだ続いていきそうです。
次に読む本
一門 冴えん師匠 がなぜ強い棋士を育てられたのか?(神田憲行)
戦後、将棋界においてもっとも多くの弟子を棋士・女流棋士に育てたという森信雄八段。
しかし森先生自身は意外にも「冴えん」棋士でした。引退までの通算成績は403勝590敗。タイトルにも縁がなく、そもそもプロ棋士になれたのも当時の将棋界の緩いルールに助けられたところがありました。
そんな森先生がなぜ多くの弟子を育てることができたのか。森先生や弟子の棋士・女流棋士の先生方へのインタビューを通して、森先生が弟子たちとどのように向きあってきたのかに迫っていきます。
森先生はとてもお茶目な方で、弟子に「将棋で甘いところが出ないようコーヒーはブラックで飲みなさい」などへんてこなアドバイスをすることもあったそうです。とはいえそれも棋力が伸び悩む弟子を真剣に思ってのこと。修業時代の生活態度に関する指導などは理にかなったものも多いですし、最近では門下の棋士・女流棋士の先生方とも相談して若い弟子の指導方針を決めることもあるようです。一門全体で弟子を育てようとする雰囲気が名門の屋台骨になっているのかなと思いました。
しかし森先生は弟子が棋士・女流棋士になれればそれでいいという考えの人ではありません。山崎隆之八段を修業時代に破門しかけた際のエピソードが象徴的です。阪神・淡路大震災で被災した兄弟子を捜索中という非常時に、当時中学生だった山崎八段は将棋連盟に電話で奨励会の対局について問い合わせました。これに森先生は激怒したのです。
「いくら将棋が強くても人として意味がない」
山崎八段を叱りつけた際のこの言葉に、森先生の人生哲学が強くにじんでいる気がしました。
おススメポイント
杉本昌隆先生が藤井聡太さんの師匠として有名なのは言わずもがな、森信雄先生も映画『聖の青春』を通して故・村山聖九段の師匠として名前を知っている方も少なくないと思います。
良いプレーヤーが良い指導者とはかぎらない、とはどの世界でも言われることですね。では、良い師匠とはどのような人なのでしょうか。
将棋のプロはたいへん狭き門です。最終関門である三段リーグを突破し、プロ棋士になれる人数は原則、1年に4名。子どもの頃から10年以上血のにじむような努力を重ねてもほとんどの人が涙を呑む厳しい世界です。しかも、修行中に進学や就職といった人生の重大な選択を断念する人もめずらしくないと聞きます。
そう思うと、多くの弟子を預かる師匠の覚悟や責任感たるやいかほどのものか。もちろん弟子に対する深い愛情もなければならないでしょう。実際、杉本先生にしても森先生にしても、とても弟子思いで、弟子の活躍を心から願っていることがよく伝わってきます。そんな両先生のお人柄こそが、多くの門下生から慕われ、すぐれた弟子を育てる師匠である所以なのかもと思いました。
良いプレーヤーが良い指導者とはかぎらない。けれど、良い師匠であるには良い人間であらねばならない。将棋界の名伯楽として知られるお二方の姿に、そんな哲学を見た気がしました。
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